田沢の文化を紹介します

庚申講

「荻ノ草組」今年7回目の庚申講

 わが国の庚申信仰の始まりは、文武天皇大宝元庚申年(701)正月7日の時、大阪四天王寺の僧、民部僧都のもとに、天童庚申の像を持ち来たりたまいて、「われは天帝の使いである、毎年6回の庚申の日に、心身を清浄にして、南に向かって庚申を拝むべし、三世の徳を得る」と告げて天童は昇天した。これ以後庚申信仰が行なわれた。
 田沢地区の庚申講の始まりは、享保2年に銅屋地内に庚申供養塔が造立されたのが最初である。庚申講もその頃より屋敷毎に逐次催すようになった。庚申供養塔、庚申塔、庚申碑、大日塔、六字名号塔(南無阿弥陀仏)、馬頭観音塔、猿田彦大神塔の文字塔、青面金剛・如意輪観音等の像が造立されている。木曽内組、銅屋組、杉ノ内組、御堂内組、石内組、荻ノ草組に分かれて、庚申の日(60日毎)は眠ることなく自身清浄にして邪念なく一心に祈念すべきである(最近は厳格には行なわれていない)。頭屋は持ち回りで文字・青面金剛等の掛軸を祀って、身体の中に住むという三戸(さんし)の虫を祓い、無病息災、不老長寿を願うものである。
 今回の荻ノ草地区の7庚申講は12年前(平成12年12月28日)に行なわれた庚申講の当たり日(平成23年12月31日)講中の都合により12月18日に開かれた。
 参考資料・田沢郷土史研究会資料集1「田沢の庚申待」


御熊野講

石内地区の「熊野講」 

   二十数年振りに千本杵で餅つき 〜 20代30代の若者も参加

江戸時代から連綿と続いてきた「熊野講」(オクマノコウ)が12月6日、田沢石内の丹治庄衛宅で行われた。二三十年前まではどこの地区でも行われていたが、昔のままに行っているのは石内屋敷だけとなってしまった。
 今年は、二十数年振りに千本杵による餅つきが復活。また、二十代と三十代の若者2人が参加し11名の賑やかな講となった。 
 本来は旧12月8日、「コト8日」といわれる「田の神・山の神去来信仰によるコト納め」あるいは「8日の災厄除け・仏教の祭日・山の神祭日」に関連しこの日に行われてきたようであるが、現在は新暦12月8日の近い休日に行われている。
 各戸から男なら何人でも参加でき(女性は不可)、もち米2合5夕(昔は1升2合5夕)と御膳を持参し、当番の家に集合して別火で調理をする。
 あんこ・くるみ・納豆・お汁の餅を主食に、お汁、漬物、大根おろしだけの精進料理である。御神酒は出ない。
 調理は、囲炉裏でくるみを割る人、台所で野菜を切る人、あんこを作る人等など手分けして行う。餅つきは、敷きワラの上に臼を据え、千本杵を用いて4人が搗き手、相取りが1人の五人で蒸しあがった米を、相取りの掛け声にあわせ、「よいしょ、よいしょ」と威勢よくつきあげた。餅つきの途中で、薄く銀杏切にした大根に半練りのもちを乗っけて神様と人数分を神前に供える。
 料理が出来上がると、まず座敷に入る前に塩と水で口を清め、熊野講の掛軸を拝んで、神前に供えた大根と半練餅を食べ、談笑しながら用意したもち等を全て平らげた。
 地震があると再度もちをつく慣わしなので、食事を終えると直ぐに、神前のもち・残り火・敷きワラ、臼の洗水を持って、「ホーイ、ホイ。ホーイ、ホイ」との掛け声で屋敷外れの立ち木の下に全員で拝んで納める。帰って家に入る前には塩水を飲み干し、一連の講の行事を御仕舞いとした。
 山と農耕の信仰から出てきた「熊野講」を通じて、仲良く親交を深めあいながら伝統行事を今後も末永く大切に続けて行きたいものである。 (文責 町会長 丹治庄衛)


「大滝神社」祭礼

「大滝神社」祭礼

 所在地 田沢字峠森 鎮座
 祭神  大滝の神
 社殿  石祠
 氏子  丹治隆夫 ・ 丹治 伝 ・ 丹治隆則 ・ 丹治保男
     丹治伸一 ・ 丹治正弘 ・ 丹治 昇 ・ 丹治徳雄
     (元は氏子12名) 現在8名

  祭りは毎年5月3日に行なわれ、この日は必ず晴れると伝えられている。現在の祭り旗は明治8年の物、祭りの記録は明治15年より存在する。
  場所は田沢林道峠森より入り阿武隈川沿にある。途中急坂を下る為に足腰の弱い人は苦労する。
  一度は行って見る必要あると思います。(感想 田中 修)

羽山神社例祭
羽山神社
「羽山神社例祭」田沢荻ノ草鎮座する祭神「麓山祇命」を祀り、勧請は年月不詳、田沢地区の最初の村社と言われている。祭礼は毎年10月最初の日曜日に行なわれて荻ノ草地区全戸の家族が参加して地区内の安全祈願をしている。

坪刈り

賽の神
賽の神
今年1年の豊作を願い行われる行事。
田沢の石内地区で毎年行われている。竹と藁で組み上げた、直径3m高さ約8mはあろう竹のピラミッドが、前日までに完成していた。
定刻、部落の人達の手により点火された炎は、高さ20mに達する。見学に訪れた人達からは歓声があがり、一瞬の炎の舞の終わりに、残り火を使って餅を炙りほおばる家族もいた。製作からの詳細はこちら
                     (写真提供:桜台の伊藤さん)