「万治の御蔵給人張」について
慶長3年(1598)1月10日越後国・春日山城主。上杉景勝が豊臣秀吉から120万石を与えられ、蒲生秀行にかわって会津若松城主となったが、慶長5年(1600)9月・関ケ原の合戦で、石田三成に味方したため、30万石に減され、出羽国の米沢城主となった。福島はそのまま上杉領に残され、寛文4年(1664)まで続くが、米沢藩は減封になったのにもかかわらず、家臣を減らさなかったことや、天候不順による不作等も多く、財政は年々困窮し、開墾を奨励したことは前回でもお伝えしました。
藩は寛永14年・15年(1637〜1638)領内総検地、明暦3年(1657)「御蔵給人納方新張」を作成。これにならって信達地方でも、万治元年から2年(1658〜1659)にかけて作成され、田沢町会所有として受け継がれてきた「田沢村御蔵給人領御張」がそれである。「万治の縄」ともいわれ、検地を厳しく、すべてのものに税をかけ、免を増し、百姓を苦しめたため、多数逃散するものがでたと言われる。
(下記史料の原本は縦31.5cm・横22cmで、最後の2ページを掲載)
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