その4
田沢の歴史 その4

前回で上杉藩時代になってつくられた「邑鏡」と明暦3年の「開作免許状」を紹介したが、それより以前の史料(市史2)を追加しておきたい。

豊臣秀吉の命により蒲生氏郷が領内の村高と給人(家臣)名とを書き上げた文禄3年(1594)の「高目録」によると、田沢村の石高は341石6斗3升で「蔵入」(領主へ収める税)の記録がある。慶長2年(1598)の「藤三郎(蒲生秀行)倉入(蔵入)在々高物成帳」には、下記の六ケ村は大塚吉左衛門尉というは給人を抱えたことがわかり、物成(年貢)と免(税率)が初めてわかる。

代官・大塚吉左衛門の知行高
村 名 石 高 物 成
田沢 34163 43 1469
浅川 81467 35 285134
金沢 5777 33 190641
石名坂 291石1斗 29 8442
大蔵寺 27938 19 53082
太平寺 82471 8分余 65977
312919 826154
*免の43分は43分のこと

*
御蔵入の諸年貢は直接若松城へ運ばれた。

「万治の御蔵給人張」について

慶長3年(1598110日越後国・春日山城主。上杉景勝が豊臣秀吉から120万石を与えられ、蒲生秀行にかわって会津若松城主となったが、慶長5年(16009月・関ケ原の合戦で、石田三成に味方したため、30万石に減され、出羽国の米沢城主となった。福島はそのまま上杉領に残され、寛文4年(1664)まで続くが、米沢藩は減封になったのにもかかわらず、家臣を減らさなかったことや、天候不順による不作等も多く、財政は年々困窮し、開墾を奨励したことは前回でもお伝えしました。

 藩は寛永14年・15年(16371638)領内総検地、明暦3年(1657)「御蔵給人納方新張」を作成。これにならって信達地方でも、万治元年から2年(16581659)にかけて作成され、田沢町会所有として受け継がれてきた「田沢村御蔵給人領御張」がそれである。「万治の縄」ともいわれ、検地を厳しく、すべてのものに税をかけ、免を増し、百姓を苦しめたため、多数逃散するものがでたと言われる。

(下記史料の原本は縦31.5cm・横22cmで、最後の2ページを掲載)

ここでわかることは田沢村には本百姓13人(清次郎・孫七・長左衛門・かいぬま・久三郎・外記・久左衛門・与左衛門・六右衛門・清右衛門・新右衛門・検断次左衛門・肝煎門三郎)居住していたこと。

代官は3。(河田五郎兵衛・小田切内膳・村越藤左衛門)

100頁にわたるこの御蔵張を3冊作成して、代官へ差出したことがわかる。
都 合 (合計)
石 高 物 成 免(税率)
本帳面 357323 151037 42269
元和9見出 238551 44976 188538
寛永14見出 47459 6249 13167
明暦3開 66 46 7
合 計 643993 202308

※四一高は村によって免(税率)が異なるので、家臣の知行を平等にするための調整高でもある。(知行高100石の者は、四ツ一分の物成41石が実給料である。)(四一高×0.41=物成)

田沢村の給人知行と御蔵納
物成 四一高 米方 代方

西方次郎兵衛

128815 41000 100000 21525 41924

山田修理

111795 34556 84283 18142 35335

香坂采女

198490 61500 150000 32288 62886

桜井弥右衛門

59667 17776 43356 9333 18177

大橋平右衛門

124563 41000 100000 21525 41924

御蔵納

20663 6476 15795 3401 9587
田沢村(合) 643993 202308 493434 106214 209833
※ 物成(年貢)は半石半永で、半分は米・半分は永楽銭で納めた。
調査 阿部久子さん