双大竜 亮三(そうたいりゅう りょうぞう、本名:高橋 亮三(たかはし りょうぞう)
1982年7月26日 誕生
福島県福島市出身の大相撲力士。時津風部屋所属。最高位は西十両3枚目(2012年3月場所)、血液型はA型。

経歴
福島市立蓬莱小学校4年の時に担任教師に勧められ相撲を始める。
福島市立蓬莱中学校では相撲部がなく陸上競技部に所属し、砲丸投の選手であった。
その後、福島県立会津農林高等学校から東京農業大学に進学。八角部屋の朱雀は高校・大学の同級生である。
国民体育大会の福島県代表に選ばれ、大学4年時には相撲部主将を務めるなど将来を嘱望されたが、2004年5月に腹膜炎を患い、当時116kgあった体重が20kgほど減少する。
このため大学卒業間際の2005年3月にようやく医師からの許可が下り、4月に時津風部屋に入門、平成17年夏場所新弟子検査を受験し合格、角界入りを果たす。
夏場所の前相撲で新序出世を果たし、翌名古屋場所は東序ノ口40枚目で全勝優勝、1場所で東序二段33枚目に昇進、秋場所も6勝1敗で続く九州場所では東三段目70枚目へ昇進、その場所でも7戦全勝で、優勝決定戦では影山(現栃煌山)に敗れ優勝は逃したものの、翌2006年初場所で東幕下45枚目へ昇進と、順調に昇進していた。
2006年、6場所中4場所で勝ち越すものの、最高で5勝2敗とそれまで三段目以下で見せたほどの勢いはなく、幕下中位から下位に留まる。2007年、いずれも4勝3敗の成績ではあったものの、初場所から3場所連続で勝ち越し、名古屋場所では自身最高位の東幕下10枚目の地位まで昇進するが、場所前に発生した時津風部屋力士暴行死事件の影響もあり、その場所から3場所連続で負け越し、再び幕下中位に番付を下げる。
2008年、初場所こそ5勝2敗と勝ち越すが、足の怪我の影響でその後3月場所から3場所連続で3勝4敗と負け越し、東幕下48枚目まで番付を下げる。
この間に暴行死事件により高校・大学の後輩が逮捕されたこともあり相撲に集中できなくなり、一時は引退も考えたという。
しかし9月場所で6勝1敗の好成績を収め、その場所から2009年7月場所まで6場所連続で勝ち越しの好成績を収め、再び幕下上位に番付を上げる。
自己最高位の西幕下筆頭で迎えた2009年7月場所では、3番目で前場所まで2場所十両を務めた福岡(現隠岐の海)に敗れるも、それ以外の取組に全勝、幕下で自身5場所ぶり2回目、かつ優勝同点となる6勝1敗の好成績を収め、8人で争った優勝決定戦では準決勝で敗れたものの、7月29日の番付編成会議で9月場所での十両昇進が決まった。
なお双大竜の四股名が暴行死事件を起こした前師匠15代時津風の現役時の四股名、双津竜と類似していることから現師匠である16代時津風は十両昇進とともに四股名の変更を検討していたが、双大竜は「偉大な横綱(双葉山)の名が入っている」として変更を希望せず、新十両になった際も四股名は変更されなかった。
新十両として迎えた9月場所、1勝1敗で迎えた3日目から4連敗するも、その後7日目から4連勝で5勝5敗と五分の星まで盛り返す。
しかし11日目から5連敗を喫し最終的に5勝10敗となり、他力士の星、および幕下からの昇格候補力士の数の関係で、1場所で幕下降格となった。
2011年7月場所は10場所ぶりの十両復帰(西十両7枚目)。8勝7敗と十両では初の勝ち越し。翌9月場所は新入幕を狙える西十両4枚目。6日目まで4勝2敗。
しかし、7日目の妙義龍戦で上手投げで敗れた際に負傷。中日から休場(中日は不戦敗、4勝4敗7休)。休場は自身初。翌11月場所は東十両11枚目。10日目まで7勝3敗。
その後5連敗で負け越し(7勝8敗)。翌2012年1月場所は東十両12枚目で初日から5連勝し、10日目に勝ち越しを決め、最終的に10勝5敗。翌3月場所は新入幕を狙える西十両3枚目。

平成25年大相撲春場所(3月10日初日)新番付より幕内西15枚目となりました。
福島市出身で初めての幕内力士となる。