その3

 田沢村の名の由来について「信達一統志」は「当邨ハ西に山あり、東ハ大熊川(阿武隈川)なり、故に其沢ともを開発して田地を作る、是を以て田沢と負せしならむ」と記し、明治の「村誌」は、「天正十年(西暦1582)の頃、丹治但馬・同丹後・同縫殿助<石内の丹治庄衛氏の祖なり>、山間を開拓して耕地と為す、故に田沢と称すと言ふ」と述べている。

 ただし、木曽内・中之内・戸之内・山乃内・石内など、「内」附きの中世地名によれば、当村の開発がそれ以前にさかのぼることは明らかである。・・・・と一部分ではあるが記載されています。

 1,600年(慶長5年)、関が原の戦いで豊臣時代は終わり、信達地方を支配していた上杉景勝は徳川家康に、120万石の領地から30万石に減封された故、特に田畑開発の奨励に力をそそぎました。

 ここに田沢村の様子が解る最古の書、年不詳ではあるが村鑑(福島市史8)(米沢市立図書館蔵)を紹介します
「福島の町と村」(福島市史)より、
田沢村の成立にふれます。